これは、偉人の業績を称える伝記でもなければ、世界一速くて美しいクルマを生み出した男の物語でもない。
誰よりも自尊心が高く、スピードとクルマを愛した、ただの負けず嫌いな狂人の物語だ。
あえて“狂人”と言ったが、この時代においては「度が過ぎている人」程度の存在だ。
多様性の時代だからこそ、閉鎖的な時代の「普通」を映像化した作品は多い。
『フェラーリ』もその流れの中に生まれた作品のひとつだと思う。
多様性の時代における「普遍性」の定義が抱える自己矛盾について、今作も一石を投じているのかもしれない。
でもだ、今作が描くのは、エンツォ・フェラーリという男の狂気についてだ。
最高を追い求める男の前に立ちはだかったのは、強力なライバルでも、限られた時間でも、技術的なブレイクスルーでもなく、女房と愛人と子供だった。
時代を変えるほどの巨人であっても、巨人だったからこそ、その巨大な歩みを阻むのは、誰の足許にもある普通の事柄であるという一見意外なあたりまえの教訓を描いている。
そうした人間らしい過ちと、決して普通ではない存在感の落差について描いていることが今作のポイントなのですが、ことエンツォ・フェラーリという巨人を描くにあたり、そこに視点を置くことに、私は少なくない違和感を感じてしまう。
映画館の音響設備で聴く往時の名車たちの奏でる咆哮には鳥肌が立ったし、その再現に関して一切の妥協がなかったことは特筆できる。だから、それを体感したくて映画館に行くのも悪くはない。
すでに伝説となった「最後のミッレミリア」を映像化してくれたことにも心より感謝している。
でも、頭のネジが1〜2本ブッ飛んでいる人間の話と、それ故に、あれほど美しい、すでに藝術と呼んで差し支えない自動車を生み出した男の奇跡の話は、残念ながらリンクしてはいなかったように私には思えた。
朝、家族を起こさないように家の前の坂道でクルマを押しがけして出かけていたことや、会社が倒産寸前でも、自家用車の増産をしなかったこと、一人息子のディーノの死に際には、医者も顔負けのデータ分析を行っていたことなど、噂や伝承に聞くエンツォ・フェラーリの人物像とは違う一面から、そこへとリンクするやに思えた伏線があるにはあったが、彼の奥底に潜む狂気の正体を暴くには至っていないと思う。
あるとしたら、たとえ見た目は悪魔のような男でも、中身は小さな一人の人間だった。みたいなことを製作陣は描きたかったのかもしれない。もしそうだとしたらそれはミスだろう。
いずれにせよ、多様性という時代の要請に足を引っぱられすぎだったように思う。
多様性へのアンチテーゼという足枷を外していたら、もっとエンターテインメント性の高い作品になっていたように思えてならない。
もし『フォード VS フェラーリ』のような映画を望んでいるのなら、今作は観ない方が得策だと思う。
(オススメ度:40)
Netflixの影響で、現在アメリカでは空前のF1ブームが到来しており、今作が創られた背景も、そのことと無縁では決してない。
そして来年、ジェリー・ブラッカイマー製作、ブラッド・ピット主演の、F1を舞台とした映画が公開される。
実際のグランプリで撮影もされたその映画の名は『F1』。
こちらは小難しいことなど抜きにした生粋のエンターテインメント。
モーターレースの本質がそこにあることは間違いがない。
『オッペンハイマー』もいいけれど、『トップガン』もないと多様性を満たすことはできないのであります。
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