カトリック教会の最高位聖職者であるローマ教皇の死去により、次の教皇を決める選挙が行われる。
そのために世界中の枢機卿がヴァチカンに集まり、新たな教皇が決まるまで枢機卿たちは隔離された状態で選挙を行うことになり、外部からその様子を窺い知ることは一切できない。
この映画は、そんな秘密のベールに包まれた『教皇選挙 Conclave』の全貌を詳らかにしようとしている。
教皇の決定には、選挙権を持つ全枢機卿の3分の2以上の得票を得ることが必要となるのだが、大きなところではイタリア派とフランス派、それ以外の英語圏の国々など、勢力分布があることで選挙は一筋縄ではいかない。
有力候補はいるものの、すべての枢機卿が候補となるため模様眺めの時間も多く、なかなか一人の候補者に絞り込まれない。
投票ごとにその結果が煙突から吐き出される煙の色で世に報されるのですが、その回数がかさめば嵩むほど、権力争いの色が濃いことを世に示すことになり、世界中に約14億5百万人いるカトリック信者を率いるべき教皇の品格、ひいては教会全体への信頼を下げることにもつながってしまう。
そうした政治的な背景や、候補者の野心などが入り混じっているところは普通の選挙と何ら変わらない。
とある出来事に神の啓示を見て、それまで二分していた意見が一つになる最終的な決着のつき方など、トム・ハンクス主演、ラングドン・シリーズの第2弾『天使と悪魔』と似ていなくもないが、エンタメ作品としてコンクラーヴェを題材にしていた『天使と悪魔』とは違い、『教皇選挙』では、より強く「信仰」というフィルターがかかっている。
唯一の神を信仰すること、偶像崇拝の禁止、安息日を守ること、父母を敬うこと、そして殺人、姦淫、盗み、偽証、隣人の財産への欲望を固く禁止する聖書という大きな「約束」を守り抜くことを信仰する、その長たる者たちにとって、「野望」を抱えることがすでに罪ではないのか。
世界各国、地域ごとに抱える問題や課題は違う。
自らの地域の信仰を守るためなら、それに反する意見を持つ他の地域の枢機卿を蹴落とすことも厭わない。
そうした考え方は果たして聖書の教えに反していないのか。
「キリストはゴルゴダの丘で『神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか』と天を仰いだ」
イエス・キリストでさえ信仰心が揺らいだことがある。
自分一人が汚れ役を買って出れば、それらが片付く、世界は正しい方向に進む。
そうした一見献身的な考え方は、実は根源的に間違っている。
そうした根源的に抱える矛盾に囚われない強い意志こそ、次世代のリーダーに必要な資質である。
という発想が、いかに都合の良い考え方であるのか。
何より、カトリック教徒という巨大な組織を、歴史や伝統を重んじながら、1秒ごとに進化を重ねる現代社会にいかに適応させていくのか。
そうした抜き差しならない問題に直面しながら、野心と献身、自尊心と犠牲の心の間で揺れる生身の人間の姿が描かれる。
そして、
地球が丸いということさえ認めるのに時間のかかった旧態依然とした変化に対応しずらい組織が、現代社会が抱える「多様性」の問題にどう応えていくのか。
カトリック教会では男性しか聖職者にはなれない。
その是非につては横に置いておくとしても、そうした組織が、LGBTQ+や性差別をどう解釈し、信者たちをどう導いていくのか。
「人は不完全である」
この映画ではウルトラ級の解決策で、そうしたあまりに大きすぎる問題に対する「救い」がもたらされる。
どれだけ求めても、決して言葉を交わすことができない、そのご意思は想像する他ない「神」との「対話」を繰り返す信者たちの前に、あまりにも大きな「啓示」が示され、映画は幕を閉じる。
そこがあまりに“芝居じみている”ことは否めないが、アンタッチャブルな題材を大胆に解釈し演出したことは評価したい。
(オススメ度:80)
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