DCスタジオのクリエイティブ面の全権を与えられたジェームズ・ガンがコントロールする新生DCユニバースの幕開けとも言える作品。それが『スーパーマン』。
バットマンをはじめ、今後様々な監督がDCユニバースの各キャラクターを再構築していくことになる。
スーパーガール/カーラ・ゾー=エルの活躍を描く『スーパーガール:ウーマンズ オブ トゥモロー』は『クルエラ』『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』などの監督で知られるクレイグ・ギレスピーがメガホンをとり、スーパーガール役をミリー・アルコックが演じてすでに撮影が完了。2026年夏の公開を予定している。
ダークな世界観全開の『ザ・バットマン』はDCユニバースとは一線を画した別の世界線として続編が制作されることが発表されており、DCユニバース版のバットマンはまた別に制作される予定だという。
さておき、これまでDCユニバースを構築してきたザック・スナイダーの世界観を完全にリブートするために『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の監督であるジェームズ・ガンをDCUのクリエイティブ面のトップに据えたわけだが、果たしてジェームズ・ガンはどのようにDCUを再構築するのか?そこにファンの興味は集中している。
そうしたファンに対し、新たな世界観を高々と宣言するためにはDCの顔と言っていいスーパーマンから着手しなければならなかったわけなのですが、とはいえ題材は最高の人気を誇るあのスーパーマンだ。
MCUの『アイアンマン』のときのように小手調べ的な入り方は許されない。
一発で今後のDCユニバースにファンを引きこめるような大胆な改革が求められる。
そうしてジェームズ・ガンが選択したのは「完全無欠ではないスーパーマン」。
ほとんどアメリカの象徴と言っても過言ではないスーパーマンというアイコンは、これまで人格的にも肉体的にも完全無欠のヒーローとして描かれてきた。
それ故にスーパーマンはほぼ無敵の存在で、敵役はどんな悪人でも決して殺すことのない正義感につけ込むか、唯一の弱点である鉱石「クリプトナイト」を利用するかしないと押さえ込むことはできない孤高の存在として描かれ続けてきた。
『ジャスティスリーグ/ザック・スナイダー カット』で、ザック・スナイダーはそんな完全無欠のスーパーマンを闇堕ちさせ、さらにダークで絶望的な世界線へと向かう計画だったことが明かされたが、残念ながらザック・スナイダーの世界線はそこで途絶えてしまった。
では、ジェームズ・ガンはどうするのか。
全世界がそこに注目したのですが、言ったようにどこか抜けたところのある、とても人間味に溢れたスーパーマン像の構築を狙ってきた。

ザック・スナイダーは赤パンツを履かないスーパーマンを描いたが、そういったこともあり、ジェームズ・ガン版のスーパーマンは古き佳き赤パンツ姿で登場してきた。

今回、スーパーマン/クラーク・ケント役に抜擢されたデヴィッド・コレンスウェットは、これまでの超のつくイケメンマッチョというスーパーマンのステレオタイプを完全に脱却し、そんな人間味あふれるスーパーマン像の構築に一役買っている。
当初、この人選には多くの批判が集まり、SNS界隈では口の悪い古参のファンからのバッシングもあったようだ。特に上に貼った最初の予告編にあった飛行シーンを観たファンからは「表情が不自然だ」などの批判が寄せられたようだ(実際このシーンはテスト版であったとの理由で本編では使われなかった)。正直私も今回のスーパーマンの配役にはかなり困惑しましたが、実際に観終わってみれば、ジェームズ・ガンの選んだ方向性との整合性もあり、このキャスティングは間違っていなかったと思えるようにまでなった。

そうした新たなスーパーマン像に合わせ、ロレス・レインもレイチェル・ブロズナハンにリキャストされたわけですが、二人を並べて見た時に最大の魅力を発揮する、なかなかに魅力的な組み合わせだと私には思えた。

そして、スーパーマンの宿敵であるレックス・ルーサー役を演じたのは甘いルックスが魅力のニコラス・ホルト。今回のキャスティングでこのレックス・ルーサーが一番ハズシているように思えたのですが、実は今回のレックス・ルーサーが歴代の中で較べても最狂のキレっぷりを魅せてくれていた。
怪我もするし負けることもある“弱いスーパーマン”の敵役として、肉体的ダメージだけでなく、精神的にもジメジメとした現代的な追い討ちをかける最強の敵役を当てることで、これまでで最悪と言っていい状況に追い込まれるスーパーマンを見ることができる。
そうした新たなスーパーマン像はかなりの波紋を呼ぶことだろう。これがすんなりと受け入れられるとは到底思えない。正直に言って私も鑑賞中にまあまあ困惑した。
ジェームズ・ガンが「スーパーマンはアメリカにやって来た移民だ」と発言し、それにトランプ大統領が「イデオロギーの押し付けだ」と反応し物議を醸したところ。
こうしたこれまでにない人間味をもつ新たなスーパーマン像が受け入れられるのかどうか?のヒントとなるのはやはりアメコミ作品のほとんど始祖と言ってもいいティム・バートン版の『バットマン』だろう。こちらは大ヒットを記録したわけだが、リアリティは二の次でかなりファンタジー方向に振っていた。
もちろん同じことをしても失敗するだけだし、それはジェームズ・ガンのやり方ではない。ただ、荒唐無稽な漫画の世界を、リアリティを追求しすぎるとどこかで破綻するということを示唆するには十分だったと思う。
最後の最後に南極にあるスーパーマンの基地に、スーパーマンの従姉妹であるスーパーガールがフラッとやって来るシーンがあるのですが、まるで二日酔いのようにダルそうで、まあまあイっちゃってる様子を見せるスーパーガールには、とても興味を惹かれたし、ジェームズ・ガンの目指す世界観のようなものが垣間見えたような気がした。
SNSへの書き込みを気にするような、迷いにも溢れた新スーパーマンの姿には、新しい可能性を感じさせた。
ただ、これからユニバースを形成する作品たちが、こうした演出の方向性で一貫されるわけではないのだという。
作品ごと、キャラクターごと、そして監督ごとに脚色が選択される「多様性」が確保されるのだという。
多様性と言えば聞こえは良いが、各キャラクターを同じ空間に配置しようとすれば、それは一貫性を失う危険性も孕んでいる。ジェームズ・ガンはそうした中にあってもDCコミックスの『アベンジャーズ』にあたる『ジャスティスリーグ』の構想もすでに持っているというから大したものだ。
新生DCユニバースはまだ始まったばかりだが、第1作となる『スーパーマン』で、観る者に多くを想像させるよいテーゼを与えることに成功しているように感じる。
お手並み拝見と行こうじゃありませんか。
(オススメ度:70)
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