平場の月

もう6年も前に読んだ小説なので、なんとなくのアウトラインしか覚えていないのだけれど、だからこの映画を初見のようにも見始めることができた。

ただ、物語が進むにつれて結末が思い出されて来てしまった。

正直に言って、ハッピーエンドには程遠い話だったことを思い出してしまったので、そこからちょっとブルーな気分になってしまった。
それからは「あの物語を、映画としてどう結末づけるつもりなんだろう」と、そっちの方が気になり出してしまいましたが、いくつかのエピソードが追加されていた以外は、ほぼ原作のままに物語は幕を閉じてしまった。
原作の趣旨をほぼそのままにした製作陣には拍手を送るしかないが、泣くことも、憤慨することもできない終わり方は、映像作品として、あまりに投げやりだろう。とすら思う。

原作を読んでいない方にこの結末がどう映るのか分からないが、私には「これほど映画化に向かない小説もない」とか思えてしまう。

『平場の月』は、とにかく“小説的”だと思う。

「こんな私が誰かを巻き込むような生き方をしていいわけがない」
呪いのような思いを抱えたまま、最期に出会えた最愛の人を拒絶する主人公。
彼女の決意と覚悟を、まさに“往生の際”に見せる生き様と感じるか、ただの偏狭な意地っ張りと捉えるか。

若い頃は都心部でイケイケの青春時代を過ごしたのち、地方都市に舞い戻った50代以上には胸が痛むほど身近でいて刺さるテーマではあるが、これが恋愛映画だと思って観に来てしまった20〜30代には決して伝わらないだろう。とか。
小説のような行間を持たず、なのに小説のように読み手にその行間を埋めることを強要するあの終わり方は、ぶつ切りのように終わっているように見えてしまわないか。とか。余計なお世話にも程があるが、ついこっちが不安になってしまう。

星野 源が今作のために書き下ろしたという主題歌『いきどまり』は、劇場公開された14日の0時まで配信されなかった。
普通に考えれば映画の公開前に楽曲が知れ渡れば、大きな映画の宣伝になるだろう。
そのための星野 源の起用でもあっただろうし。
それでも『いきどまり』は、どうしたわけかギリギリまで配信されなかった。
予告編で聴こえる部分しか歌詞は分からなかったのですが、配信されて歌詞を全て読みこんで理解できた。
この曲が、この作品の行間を埋めている。ギリギリまで配信されなかったのは、この曲が物語のネタバレそのものだったからなのだろう。なんと言っても題名が「行き止まり」だし。

「息が止めば、生まれ変わり君に逢える」

「嘘」

「ただ燃えて消えていなくなるの」

「ベタな雲の上の再会もない」

この台詞は須藤葉子の今際の際のものだと仮定すれば、いかに彼女が自身の人生を呪っていたのか、どれだけ自身のことを罰しようとしていたのかが見えてくるように思う。

ただ、引き剥がされてしまった青砥の気持ちはどうなのだろう。

「忘れないよ君の温度」

「下手な間違いだらけの優しさも」

残された青砥に、死ぬより辛いその罰を背負わせてしまったことを、須藤はどう考えているのだろうか。

そうした、矛盾し、決して相容れない、二人のお互いに対する思いを、あの中途半端な幕の切れ方に託した。
というのはあまりに小説的で、恋愛映画だと思って観に行った方の目にはどう映るのだろうか。

原作に倣い、今作はそのほとんどの場面が私の地元で撮影されていて、映り込むほとんどの背景に既視感がバリバリ。
中学時代の二人が自転車に二人乗りするシーンなど、うちからは目と鼻の先の場所だ。
他人の視点で描かれた自分の故郷を眺めていると「いい場所だなあ」なんて、私の中の地価の評価額が爆上がりしてしまう。
巡礼するまでもなく、聖地に住むなんてこともなかなかないので、これも珍しい体験だ。

(オススメ度:60)

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