憐れみの3章

ロブスター』『聖なる鹿殺し』『女王陛下のお気に入り』『哀れなるものたち』のヨルゴス・ランティモス監督作品『哀れみの3章』。

今作を一言で言えば「難解で不快」。
「スッキリ爽快」でも「分かりやすく不快」でもない。
上記の4作品は、これと較べればまだ「スッキリ不快」。
あくまでも私の指標ではありますが、難解さでも不快指数でも『憐れみの3章』は最高値の作品となった。

エヴァンゲリヲンを更におぞましく不快にした現代劇だと思っていただければ分かりやすいかもしれない。

果たして“映画体験”とは何か?
人が映画を欲する理由やタイミングは様々あると思うが、『憐れみの3章』は「よくよく人間について考えたい」「自身をざわつかせたい」「作品の意図を考察したい」「ただただ鳥肌を立てたい」というムキにお勧めの作品だと思う。
そういった需要があるのかどうか、正直私には分からない。
じゃあなんで不快な思いをしてまでヨルゴス・ランティモスの作品を観ているのか?と問われれば、最初に言った「果たして“映画体験”とは何か?」の答え探しをしたくて観ている。ということになるのだと思う。

なんて言うと博識な意見に聞こえると思うが、種明かしをすれば、ヨルゴス・ランティモス監督作品が「評論家筋に高い評価を得ているから」観ているということでしかない。

映画だってビジネスなのだから、興行収入が全てと言っていい。はずだ。
どう考えても「スッキリ爽快」な作品が一番集客力があるはずなのだが、それこそ素人考えだったりする。
どうやら映画産業というものは、宮崎駿やトム・クルーズ、アベンジャーズばかりでは廃れてしまうビジネスのようだ。というか“そういう文化”のようだ。

だからこそ、そこに出資できる可能性や資質を見抜く能力が問われるわけで、私はその千里眼の方に興味がある。

これもただの私見でしかありませんが、当代きっての映画監督と言えば、クリストファー・ノーランだと思う。
オッペンハイマー』を映画化したいと考えたとして、そこに出資できる担保となる実績や実力を、一切の問題もリスクもなく持ち合わせている映画監督だからだ。
お次は10年先まで作る映画が決まっていると言われるリドリー・スコットか。
そしてドゥニ・ヴィルヌーブが挙げられるだろう。『砂の惑星』というハイリスクだがハイリターンを期待できる作品を任せられる映画監督も少ない。

そうした観点で『憐れみの3章』という、有名な歴史上の偉人の映像化でもなければベストセラー小説が原作でもない、完全なオリジナル脚本作品を見たときに、そこに出資する感性というか勇気について、私は強い興味がある。
なぜヨルゴス・ランティモスにはこうした実験的冒険が許されるのか。
どこに実験結果としての採算を想定しているのか。

ヨルゴス・ランティモス作品の共通点だと思っているのは、人間の持つ欲望や哲学を、これ以上ないほど分かりやすい状態になるまで「煮詰めて」「濾して」を、塵になるまで繰り返し、露わにしている部分。
だと私は思っている。

これも私の解釈でしかないのですが、『憐れみの3章』で露わににされるのは、人間の持つ「依存」について。であると推察してみる。

権力への依存。
記憶への依存。
従属への依存。

この3つの依存について、3つのチャプターに分けて描かれる。
様々ある依存の形態の中から、この3つを選択した意図は私には分からない。
ただ、ランティモス監督はこの3つが人間の「憐れさ」を一番に顕にしていると考えたのだろう。

そんな3つの依存を、ランティモス流のレシピで“煮詰めて”、“濾す”と、こういう明快に不快な世界観になるという化学反応を観ることになる。
この“煮詰めて”、“濾す”は、人間のおぞましい部分を観る者に分かりやすくするためのレシピですので、普通に観たらただの狂人たちのサンプル集でしかない。誇張して見せている部分を観る方が差っ引いて解釈する必要がある。
そうして観れば、私はいつも自分の中にある悪意に向き合わされ、純粋に“身につまされて”しまう。
今作では半強制的に自身の依存と向き合わされる。
そういう不快感を映画という媒体を通して経験させる作品だと思う。
『憐れみの3章』は、そんなこれまでよりも更に“身につまされ度”の高い作品となっている。

つまり、身につまされたい需要というものがあるということか?
そんなもんあるわけないか。
映画って面白いけど難しい。

(オススメ度:40)

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