朝倉かすみ『平場の月』

この小説を読むことにしたのは、帯に「朝霞、新座、志木———」と見慣れた地名が載っていたから。
しかも、「50年生きてきた男と女には、老いた家族や過去もあり———」とあって、しかも、嫁と子供に出て行かれた独り者が主人公であるらしい・・・
「おいおい、ほとんどオレのことじゃねーか」と瞬間思ったからでありました。

中学、高校とそこそこ目立つグループに属し、調子よく生きてきた主人公の青砥は、地元の印刷工場で働いている。
ある日、健康診断でちょっとした異状が見つかり、精密検査を受けに行った病院の売店に、中学時代にフラれた幼なじみの須藤という女性が働いていることに気づく。

須藤もまた、充分に後ろめたく思えるような過去を経て、今は地元に戻って一人で暮らしていた。
そうして再開した二人は惹かれるでも離れるでもなく、恋愛なんて価値感からはとうの昔に離れた50代らしい微妙な距離感を保ち続けながら「幼なじみ」を続けていく。

青砥の検査結果には特に問題はなかったのだが、今度は須藤の方にがんが見つかってしまう。

そうして青砥も須藤の大切さを実感し、いよいよ二人は幼なじみから「そういう仲」になっていくのだが、抗がん剤治療も1クール終え、2回目の検査を終えたある日、須藤は突然、青砥に別れを告げる———

簡単に説明するとこんな話だ。

最終的に別れることを選んだ須藤の気持ちに50代の、そして、都心から遠くもなく、かといって近くもない、故郷以下、住み慣れた場所以上の街にぐるっと一周するように戻ってきた者特有の、微妙な後ろ向きさ加減が垣間見える。

似たような人生を送るものとしては、骨身に染みると言うよりも、何とも自身のはらわたをえぐられているような描写にはっきりと嫌な感じの拭えない話でありました。

それは、生まれ育った場所も、生き方も中途半端な50代の心情を見事に突いていたからに他ならない。
だからこそ、相手を自分の勝手ごとに巻き込まないように思いやる気持ちと、巻き込まれることで、自分の気持ちに正直になろうとする気持ちの間で揺れる団塊でも団塊ジュニアでもない狭間世代のオジサン、オバサンの事情には胸が詰まらされる。

50にもなると、どれだけ真剣に相手のことを想っても、結局相手のことを完全に理解することができないという、若い頃は勢いだけで突破できていた当たり前の真理に行き着いてしまう。

勢いや情熱だけで相手のやさしさに甘えたりせずに、自身の生き様として強くあろうとする姿がなんともやるせない。

見渡す限りの畑だったこの場所が、50年前のブームに乗って新興住宅地として生まれ変わり、都心に近いこともあり関東の様々な場所からこの地に移り住んできた人々の、子孫としての50歳の意味を伝えるための地元の描写はほとんどなく、住んだことのない、この地域に馴染みのない人にはちょっとこの微妙な空気感は伝わらないだろうな。と、感じるところが地元民としてはちょっと口惜しい。

別れを呑み込めない青砥は往生際悪く1年後にまた会おうと約束をする。
そうすることで二人の絆をギリギリ保とうとするのだが・・・

果たして、再会した二人はどうするのか?
その時になって知る須藤の本当の気持ちを青砥は理解できるのか、できないのか。
そして須藤は青砥の本当の気持ちを理解していたのか、していなかったのか。

男であっても女であっても、読む人それぞれに十人十色で答えは変わるだろう。
興味がありましたら、是非ご自身の答を読んでみてください。
『平場の月』なかなか50代の胃に来る小説でありました。
  

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