花束みたいな恋をした

決しておっさんが語るような作品ではないんですけど、なかなかに考えさせる映画だったのでご紹介したい。

噂には聞いていたのだけれど、この『花束みたいな恋をした』という映画の終わり方は、まあまあ後味の悪い、と言いますか、“恋愛としては”しっかりとアンハッピーな終わり方をする。
ただ、菅田将暉と有村架純演じる恋人同士が、最終的に別れを選ぶことが「不幸そうに見えるか」と言えば、決してそうでもないように描いているところが素晴らしいと思った。

二人の下した決断の是非を観る者に問うために、これ以上ない相性を持ち合わせた恋人同士の姿が描かれ、そんな特別な二人が、学生時代、フリーター時代、サラリーマン時代を経ながら、どこにでもあるような至極あたり前のすれ違い方をしてしまう。
それを「成長」と呼ぶか、「純粋さを失った」と捉えるかはこれを観た人ごとに違うと思うが、時間や環境、立場などの外的な要因によって、常に人は変化していってしまう。
変わってしまったのは相手ではなく、自分自身であったことに気づく頃にはすでに手遅れで、本人たちも最後になっていかに二人の関係が特別だったか、どうしてそんなにも大切で、貴重なものを壊してしまったのか、自身の愚かさに気づき、取り返しのつかないことをしてしまったことに苛まれる。
そのシーンは本当に悲劇だし、観ていられないほどに残酷だ。

でも、終わりのない恋愛など、そもそもあるのだろうか?
ということをこの映画は観る者に考えさせようとしている。と、私には思えた。

特別な関係だったからこそ、それを変えたり、進化させたりせずに、特別なまま記憶の中に保存しようとした二人の選択を通して、恋愛という季節を過ぎ、関係値が変わってしまってからの二人の人生に新たな価値を見出していくことの大切さを、恥ずかしがらず、高尚なフリして観る者を煙に巻いたりせずに、丁寧に、そして分かりやすく伝えようとしているところに、この作品の素晴らしさがあると思えた。

これを観て久しぶりにウディ・アレンを観たくなった。
傷を傷として描きながらも、傷つくこと自体は特別なことでもなんでもない、恋に敗れたからといって本当に体が切り刻まれてしまうわけではないのだと伝える、ウディ・アレンの描く人間讃歌のような映画だと思えた。
もちろん、深く傷ついた人間の姿、惨めなまでに恋愛に執着する人間の姿を、明るく、滑稽に描いて魅せることで、人間の愚かしさゆえの逞しさ、誰だっていとも簡単に再生できてしまう勇気を、観る者に伝えていくウディ・アレンのセンスには遠く及ばないのではありますが、私に『マンハッタン』を観直したいと思わせてくれたことには深く感謝したい。少なくとも私にそう思わせてくれた邦画は他にない。それだけでも大したものだと思う。

褒めてるんですよ。ほんとに。

(オススメ度:70)

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