「君たちはどう生きるか」は、クリエイターの到達点と限界点を、自ら暴いているのではなかろうか

先日『君たちはどう生きるか』が地上波で放送され、やっと観ることができた。
噂通りに「らしくない」感じで、ちょいちょい奥歯に物が挟まったような違和感が残る。
良い意味でも悪い意味でも話題作となっている本作ですが、私もご多聞に漏れず、あれこれと考察を繰り広げていたので、ここに感想を書くのにこれだけ時間がかかってしまった。
ただ、一旦面倒なことは棚に上げて思い起こしてみれば、初見で感じた「中途半端な『パンズ・ラビリンス』」という感想が一番正しいように思えてきた。

子供にまで分かりやすくすることに心血を注いできた人が、ある日突然理解不能なものを作るはずもない。
言いたくても言えなかったこと。描きたくても描けなかったことがあったことを、分かりやすくそのままに放置していると考えた方が良いように思えた。

なので、何が描けなかったのかを考察した方が話が早いように思う。
そのときに『パンズ・ラビリンス』は、その比較対象にもってこいのベンチマークだと思った。

パンズ・ラビリンスの舞台は内戦時代のスペイン。
主人公の少女オフェリアは妊娠中の母とともに、母の再婚相手である独裁政権陸軍のヴィダル大尉がいる砦に引っ越すことになる。新しい父親は地域のレジスタンス掃討を担当する時に残忍な一面を覗かせる強硬派の軍人。
母の容体に加え、戦況も不安定さを増し孤独な生活を強いられるオフェリアの元にある日、妖精が現れる。
妖精に連れて行かれた地下宮殿で牧羊神のパンと出会い、パンはオフェリアが地下王国の姫であること、そして真の姫と認められるためには三つの試練に立ち向かわなくてはならないことを告げる。
オフェリアはレジスタンスの攻撃も激化し始める「現実」での生活と並行して、一つ一つ、地下王国の姫となるための試練もこなしていく・・・
地下王国はオフェリアの現実逃避のための空想なのか、それとも戦渦を経験した子供にしか垣間見ることのできない超現実なのか。

パシフィックリム』『シェイプ・オブ・ウォーター』を創造した巨匠ギレルモ・デル・トロの生み出したダークファンタジーである『パンズ・ラビリンス』との類似性を強く感じる。
好き嫌いはそれぞれあるだろうが、こうした題材であるならば、パンズ・ラビリンスの方が観る者への示唆は大きいだろうと私は思う。
本当はこういった作品を撮りたかったのではないのだろうか。

パンズ・ラビリンスはとてもではないが子供に見せられるような作品ではない。
子供に観せても問題のない、むしろ積極的に観せたいと親が願う作品を生み出すことを使命とされたアニメーションスタジオの「責任」の範疇では表現しきれなかったこと。そこに自らの限界を感じていると仮定してみる。
知らず知らずに巨大な媒体となってしまったアニメーションスタジオの限界を、自ら定義したといったところでしょうか。

そうして私なりに導き出した答えは「ここ以外で作りたかった」ってことなんじゃないかと。
自分がそうした枠の中に閉じ込められていることの苦しみの発露に他ならないのではないかと。
今や泣く子も黙るアニメーションスタジオにまで成長したが、それはクリエイターにとって最大の足枷でもあるように思う。
『君たちはどう生きるか』内容的にはほとんどエヴァンゲリオンだ。
R指定になってでもスタジオカラーあたりで作って、描きたいことを残さず描けばよかったのに。
もしくは、原案だけ与えて、A24でアリ・アスターに作らせたら面白かっただろうに。

「私にはこういう描き方しか残されていなかったけれど、君たちはどんな生き方が選べるのか」って問いにつながるんじゃないですかね。

これは私の単なる戯言ですので的外れなんでしょうけど、それはさておいても、こんな好き勝手な作品が許されるってところが最大の力技だと思うのだけれど。

原作本も手に入れたのですがまだ読んでいない。これを読んだらまた感想が変わるのかもしれないのですが、字が細かすぎて読む気が起きない。

(オススメ度:お好きなようにご覧いただいて問題ないかと)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次