オッペンハイマー

長らく日本での公開が見送られてきた映画『オッペンハイマー』。
全米公開から遅れること8ヶ月。アカデミー賞獲得を待っていたかの如く、3月29日の公開となった。
題材が題材なだけに致し方ない判断とは言え、クリストファー・ノーラン好きとしては、公開見送りの一報にはそこそこ落胆した。
コロナ禍において『トップガン2』の公開がずれにずれたことからも分かるように、大作ほど興行成績が望めないタイミングでの公開を避ける傾向だったのに対し、その只中での公開となった『TENET』も、映画界全体の持続可能性を願うノーラン監督の強い思いもあり、観客の大幅な減少によって窮地に立たされた劇場経営者のため公開が決定された。それだけの決定権を持つディレクターなので、日本公開を見合わせたのもノーラン監督の意向が大きく働いているものと思われる。
そんなクリストファー・ノーランなので、劇場公開と同時の配信にも反対の立場を取っている。
それを知る者としては「日本だけ配信とかないよな」とすぐに想像はついた。
なので、ひとまず本国でも配信が解禁されるタイミングまで待つほかなく、ほぼその想像通りのタイミングでの日本公開となったのですが、日本だけ配信公開ではなく、劇場公開にしてくれたのは何よりの朗報でありました。

もちろん、それはいち映画好きとしての考えであって、被爆者の皆さんを含む当事者の方々にとっては複雑な思いがあるだろう。
なので、原子爆弾という「この世界を焼き尽くす道具」を生み出した人間の物語という観点でこの作品を眺めることをしないでおこうと思う。
とか、
ここでわざわざ私が言うまでもなく。この作品にとってそれはすでに枕詞でしかない。
描かれているのはもっと別のこと。人間の残虐性についてであった。

はっきりと難解な作品だ。
3時間という上演時間はダラダラとはせず、終始スピーディーな展開を見せる。
特に細かいカットインを繰り返す編集によって、観客をオッペンハイマーのブレインストーミングに飛び込ませるような演出は、“映画体験”を大切にするノーラン監督らしさに溢れている。
それもあって飽きることはまったくない。
ただ、今作の核になる部分、クリストファー・ノーランが今作であぶり出そうとしている事柄がなかなか見えてこないことに少々焦らされるのは確かだ。

クリストファー・ノーランは映画のエンターテインメント性に強いこだわりを持つ反面、自らの作品に答を用意しないことでも知られる映画監督だ。
映画のエンターテインメント性とは“分かりやすさ”に他ならない。
それを重々承知した上で観る者に考えさせるトリックをかならず組み込んでくる。
ノーラン作品の中で私が一番に迷わされたのは『インセプション』。
“他人の夢の中に入り込む”という物語は、最後に行き着いた先が現実なのか、まだ夢の中なのか、明かされないまま終劇してしまう。
モヤッとされながらも、自分の中に残った違和感に、自分なりに対峙させられることの楽しさこそ、映像で物語を紡ぐ映画の醍醐味と言わんばかりの作風に虜になる人が多いことが、彼の作品の独自性を裏付けていると思う。
今作はその最たる例で、核になる部分をあえて見せないようにしていた。

原爆という大量破壊兵器を生み出してしまった人間の自責の念を描いた作品。とか想像するのは私のような低級な人間のすることで、J・ロバート・オッペンハイマーを題材に選んだ時点で観客がそう観てくることはノーランも百も承知。
それをさらに飛び越えた所。オッペンハイマーを取り巻く人々の想像力の欠如や、それによる残虐性を、まさにあぶり出させるための素材だけを観客に提示してくる。

今作では広島と長崎の惨状は一切描かれない。
それは「オッペンハイマーが見ていないことは描かない」というノーラン監督が決めた今作のルールに則ったものでしかないのだが、たぶんノーラン監督は描きたくなかったのだと思う。
原爆資料館に行けば見られる映像を、特殊メイクなどで再現することは容易かったはずだ。
でも、それをすれば、観る者のほとんどを反核という答えだけに誘導してしまうからで、その時点で観客は考えることを止めてしまうだろう。

2つの原爆が投下された1945年中だけで、広島で約14万人、長崎で約7万4千人が死亡したとされる。
原爆を生みだした人間の半生を描きながら、そのことにほとんど触れないことの異常性こそが、ノーラン監督が描き出そうとしたものの正体だ。

ノーラン監督は原子爆弾を賛美する選択肢もあえて残しているのだと思う。

オッペンハイマーはユダヤ系アメリカ人として、憎きナチスドイツの殲滅を胸に原子爆弾の開発に邁進するが、原爆の完成を前にヒトラーは死に、第二次世界大戦はすでに終結に向かっていた。
同じ頃、日本の戦力がすでに底を突きかけていることをアメリカが知らなかったはずがないのだが「日本は決して降伏しない」という有識者の一言でその大前提は覆され、2年いう歳月と莫大な血税が注ぎ込まれた爆弾を使うための方便と化していく。一度振り上げられた刃の、振り落とすべき行き先として、広島と長崎が選ばれていく様子は「京都は止めておこう新婚旅行でいった場所だから」という台詞まで映し出す用意周到さ。

そうした選択肢を与えながら、自らの選択に疑問を持たせるよう仕向けている。

そして場面は終戦後に英雄に祀り上げられたオッペンハイマーが、原爆よりも更に強力な水素爆弾の開発を渋ったことで「アカ狩り」の対象にされてしまった後日談に移っていく。
「原爆投下によって終戦した」
「多くのアメリカの子どもたちが帰還できた」
「アメリカが世界の秩序を守った」
「そのためにアメリカはより強い武器を今後も持ち続ける必要がある」
「原爆の父オッペンハイマーは水爆開発を渋っている」
「オッペンハイマーにアメリカの今後の軍拡計画にアクセスできないようにすべき」
「オッペンハイマーはソ連のスパイだ」
そこにはそれぞれのエゴだけが剥き出しにされた、ただの政治群像劇が垂れ流される。

そう。

たった2個の爆弾の投下だけで、21万人が死んだことなど、誰一人として意に介さないのである。

劇中、原爆投下を指示したトルーマン大統領を、ウィンストン・チャーチルを演じてオスカーを獲得した名優ゲイリー・オールドマンに演じさせたのも、ノーラン監督の強めのブラック・ジョークだったのだと思う。
そして今作で見事、アカデミー賞助演男優賞に輝いたロバート・ダウニーJr.を、核兵器による軍拡競争の象徴と言って良いルイス・ストロース役に据えたのは、彼が軍需産業スターク・インダストリーズ社の天才科学者兼、CEOであるトニー・スターク役で俳優としての現在の名声を得ていることと無関係ではないだろう。

そうした豪華な茶番劇を、壮大なスケールで描き出し、観る者に核兵器という存在の愚かしさと馬鹿馬鹿しさ、何より自身の無関心がそれらを存在たらしめているという笑えない冗談を顕在化させている。

海の向こうで残酷な戦争が繰り返されているこちら側では、政治家がパーティー券を売って資金集めをしている。

そうした笑えない冗談のような世界を、ここに暮らす全員の無関心が生み出していることに気づかせること。
それが私にとっての映画『オッペンハイマー』でありました。

(オススメ度:60 でもノーラン作品ファンなら絶対にIMAXで観ておくべし)

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