この予告編にあるように「サイコパスの家からの脱出ゲーム」と紹介した方が、この映画に興味を持つ人が多いのだろう。
でも、今作の本質は「宗教観」にある。
アメリカにおいて、人々と宗教との関わり方は、新興宗教がらみの話題や問題、事件が後を絶たない日本とは大きく違い、歴史も長く信者数も桁違いに多い宗教が土台にある。
もちろん、宗教というものはその国の文化そのものなので、そのありようは様々。
ただ、なぜ人間には宗教が必要なのか?という観点に立てば、その答えは世界中を見渡してもただひとつ。
私には、この『異端者の家』という映画は、そのひとつの答えを炙り出すことを目的にしているように思えた。
末日聖徒イエス・キリスト教会(通称:モルモン教)の勧誘をする若い二人のシスター、バーンズとパクストン。
布教を始めて日が浅く、まだ誰一人として改宗できていないとぼやくパクストンに対して、バーンズは8〜9人をモルモン教に改宗させている中堅のシスター。
二人は、教会に「改宗に興味がある」という問い合わせのあった家を訪ね、モルモン教の布教をしている。
いつもと同じように、森に囲まれた一軒家を訪ねると、その家人リード氏に逆に宗教観について詰問されてしまう。
「キリスト教もモルモン教も、ユダヤ教のコピーでしかない」
一見理屈は通っているものの、屁理屈ともとれる独自の宗教観でまくし立てるリード。
彼の目的は、布教のためにやってきた二人の女性たちとの論戦でも、単に二人を監禁することでもなく、二人の信仰心を試すことにあった・・・

映画の冒頭、二人はコンドームについて話している。
「マグナムサイズのコンドームは、実は普通サイズと中身は同じらしい」「男のプライドのために大きなサイズを買わせているだけで、人は信じたいものを信じている」
これは避妊も禁じられるモルモン教を揶揄したシーンでもあるのですが、必ずしもその教えに共感したからその宗教を選ぶわけではなく、宣伝の量や、その宗教のもつイメージによって入信する人が多い。と、人間の本質を語るシーンでもある。
リードが語る宗教観に対する指摘もまた、このことを指していて、ユダヤ教という一つの経典を時代背景などによって様々な観点や目的に則って「キリスト教」や「モルモン教」に「反復」されている“バージョン違い”であると断じる。

単にセリフの応酬が続くだけの前半部は、ともすると退屈させられてしまうトコロですが、ここになぜ名優ヒュー・グラントを配置しているのかがよ〜〜〜く理解できる部分でもある。
彼でなければ観ている者の宗教観にまでアクセスできなかっただろうと思う。
彼の真骨頂によって惹き込まれたころに、リードは二つのドアにそれぞれ「信仰(BELIEF)」と「不信仰(DISBELIEF)」と書き、二人の女性に「ここまでの話を聞いたうえで、あなたはどちらの扉を開きますか」と二択の課題を科す。
躊躇せずに信仰の扉に手をかけるバーンズに対し、明らかにこちらの信仰心を揺さぶってくるリードを刺激しないように、パクストンは不信仰の扉を選ぼうとする。
ここで、自らの信仰心にゆらぎなく、リードに立ち向かおうとするバーンズと、よく言えば臨機応変、悪く言えば状況に忖度してしまうパクストンとの性格の違いが浮き彫りにされる。

そこから、サイコパスに閉じ込められた密室からの決死の脱出劇がはじまる。
リードがこれまでにも多くの布教活動にやってきた女性たちをここに監禁していることが明かされ、ここで二人もその候補であることが分かる。
「宗教の本質は誰かに管理してもらうこと」だと悟った。と、あたかも自身が信仰の本質を見抜いたかのように、リードは歓喜して叫ぶ。(実際のセリフは「管理すること」となっていましたが、私には「管理されること」と、信者側に立って捉える方が自然だと感じた)
リードも二人と同じように、自らが信じる教えに“改宗”させようとしていたわけだ。

そのあと、リードとパクストンはお互いに重症を負った状況で対峙する。
「おまえの“祈り”でこの状況を変えて見せろ」と詰め寄るリードに対し、パクストンは「残念ながら、祈りに何かを変える力が無いことはすでに証明されています」。「でも・・・」、「私にはあなたのために祈ることができます・・・」と返し、リードの罪を浄化するように祈りを唱えはじめる。
この最後のやりとりに、私は強く揺さぶられた。
私は、宗教観について一番重要なのは、その宗教が「現生利益」と、「来世利益」もしくは「後世利益」との、どちらを謳っているのかの違いにある。と思っていて、無病息災や家内安全、所願成就などの「恵み」を“生きているいま”成就しようと願うか否かは、宗教を捉える上でとても重要なことだと考えている。
ゴルゴダの丘で十字架に磔にされたイエス・キリストは、残された人々のために自らを生贄として捧げた。
右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ。と、聖書には記されている。
そんなイエスが「病気にならないように」、「戦場で弾が当たらないように」と、自らのために祈るだろうか?
宗教の本質は、自分以外の者の幸せを願い祈ること。
自身に不幸や災難が訪れても、それを神が与えたもうた試練だと思えること。
そうして、その者には天国への扉が開かれる。
この“自己犠牲”については、キアヌ・リーブス主演『コンスタンティン』(2005)でも、自らの命と引き換えに戦いに勝利したコンスタンティンが、天国へと導かれる様子が描かれている。
つまり、信仰による結果のすべては死んだ後、もしくは来世に繰り越されるようなものであるはずだ。
弱々しい宗教観を持っているように見えたパクストンは、そうした祈りの本質を、腹に重傷を負った状態で貫いて魅せる。
勘違いのないように言っておくと、私は信仰の本質が「来世利益」にあるべきだと信じながらも、現生利益のためにお布施を払ったりしている。
都合の良い考え方だと思われるかもしれないが、私はそうした行為を、お祭りで引くおみくじと同列のものだと、信仰心とは分けて考えている。
残念ながら私は、誰かのために祈る勇気も、試練に耐える覚悟も持ち合わせてはいない。
だからこそ、真の信仰を貫ける人のことを心から尊いと思う。
今作で描かれたパクストンの行動には、信仰を貫く者の尊さを感じさせられた。

といった具合に、互いの宗教観の応酬が見られる部分はとても良かったのですが、中盤からはそうした良いと感じた部分はただの舞台背景にまで薄められてしまい、異常者に監禁された密室からの脱出ゲームの方が印象に強く残ってしまう演出は非常に残念。
ただ、タイトルの「異端者」は「サイコパスのこと」だと思ってしまいますが、原題の『Heretic』には「異教徒」という別の意味もあり、それとダブルミーニングされているのだと思う。
今世界中で起こっている紛争や戦争は、そのほとんどが宗教観の違いによって引き起こされていると言っても過言ではない。
今作でも異教徒同士のぶつかり合いを見せることで、「そうした現在進行形で行われている紛争や戦争も同じようなものだ」と揶揄したかったのかもしれない。
そして、「他者のために祈ることで、そうした問題と向き合え」というメッセーだと取るのは、考えすぎだろうか。
こうしたホラー構造だからこそ信仰の真の姿が浮き彫りにできたとも言える。
映画作りは宗教観を語ることと同じくらいに難しい。
(オススメ度:40)※私はまあまあ楽しめたんですけど、オススメするかと問われれば・・・


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