機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女

一作目を観ても、ほとんどピンと来ていなかった私ですので、この二作目となる『キルケーの魔女』に関しても、観に行くつもりはまったくなかった。
それなのに劇場まで観に行ってしまったのは、今年の1月30日に公開がはじまり、この5月末まで引っ張りに引っ張った劇場公開期間も、いよいよこの日が最後というタイミングだったことと、その最後の劇場が以前から行きたいと思っていた青梅にあるとてもプライベートな小劇場『CINEMA NEKO』だったことが理由のすべてと言っていい。
青梅と言えばツーリングでよく足を運ぶ奥多摩湖の玄関口。上映時間も18時15分の一回のみだったので、ツーリングを済ませてから劇場に向かうことができることも、観に行く動機になってくれた。

そうして本題の『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』三部作の二作目にあたる『 キルケーの魔女』の話になるのですが、これを観てやっと、と言いますか、“今更”になてやっとこの物語の本筋が掴めた。

コレ、恋愛モノだったんですね。

歴代のガンダムがそうだったように、巨大ロボットが戦う姿を観せつづけるだけでなく、度々戦時の恋愛事情も描かれてきた。
ただ、「ニュータイプ」と呼ばれる洞察力に優れるパイロットたちは少年少女が多く、まともな恋愛などする前に戦場に駆り出されていたため、その超能力の如き操縦技術に反比例してそろって恋愛に関しては完全な初心者。
ガンダムはあえて男女の醜い姿を描く“こじらせ男子”の物語でもあるので、間違ってもこれは純愛などではない。
ただ、そうしたガンダムの世界線の中でも、これほどまでに恋愛にフォーカスされた作品もないだろう。

ガンダムでのそうした歪んだ恋愛模様の筆頭といえば、“赤い彗星”のシャアこと、シャア・アズナブルで間違いないだろう。
少年少女が多いニュータイプの中で、シャアだけが成人していることで余計に罪が深い。
シャアがする、さんざん惚れさせておいて、その相手を時に戦争の道具に、時に自身の弱いところを吐き出す相手のように扱う大人がする卑怯な恋愛手法は、すでにガンダムシリーズの恋愛講座の基礎編のようになっている。
今作の主人公ハサウェイ・ノアも、淡い恋心を抱いていたクェス・パラヤを、そのシャアに連れて行かれた当事者。
そのハサウェイが、アムロに「君はクェスを連れ去ったシャアと同じことを言っている」と指摘されるシーンは興味深かった。結局、シャアもハサウェイも同じ穴の狢だった。
ただ、ハサウェイがシャアより歪んでしまっているのは、豊富な戦争に関する知識や技術に対し、恋愛を含む人生の経験値があまりに足りていないことによる。

そうしたコジらせ方を誇張して描くのがいつものガンダムのやり方なのですが、とはいえ罪悪感と肉欲を混同してしまう稚拙さは、いくら何でも荒唐無稽に過ぎるだろう。
そして、シャアよりもきっぱりと恋愛上級者で、それなのに人としてのスマートさに欠け、あからさまに女がらみの縁起を担ぐ、わかりやすい“ゲス野郎”として描かれる連邦軍将校ケネス・スレッグも、もちろん引き続きこの世界線での重要な人物となっているのですが、それもここで描かれる戦争に関しての重要性よりも、稚拙なハサウェイの比較対象としてのサンプルという重要性の方が際立つ。
繰り返し言っておくが一般的な恋愛映画と同じだと考えてはいけない。戦時という残酷な特殊性が生み出してしまう恋愛ホラー。
一作目ではそうしたところに気づけなかったため、観終わってもこの作品が描こうとしているものが、私にはまったくもってイミフでありました。これを機会に一作目も観なおそう。

さておき、こうした一連の“特殊な”恋愛観を見ていて思うのは、そのシャアの一番の被害者であるララア・スンのこと。

戦争の道具にされ、ニュータイプ同士惹かれ合うアムロにやきもちを焼いた挙句に隙を見せてしまい、あと一歩のところでアムロに殺されるシャアを庇って自死したあのララアだ。

『GQuuuuuuX』では、ラストでいよいよそのララアの思いが遂げられるわけなのだが、今作を観てやっとそのことの重要さに気付いた。
やっぱりララアの救済を願う者は多かったんだなあ。

閃光のハサウェイもいよいよ次の三作目で結末を迎える(はずだ)。
いよいよ幻想まで見るほどに、気が狂わんばかり惹かれ果ててしまった、あからさまな疫病神(それゆえにキルケーの魔女)ギギ・アンダルシアを連れ去ることが叶ってしまったハサウェイ・ノア。
そして、親父のブライト・ノアもいよいよ矢面に出てきたし、修羅場必死の様相。
戦争という極限状態で、男と女の、そして、志を異にする父子の修羅場を描いているのだと思うと諸々合点がいきます。

今作の映像の美しさに関しては、好き嫌いはあると思うが、きっちりと「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を凌駕していると思えた。これに関しては小劇場ではなく、IMAXを含むラージフォーマットの劇場で観ておくんだったと後悔。
原作が映像の伴わない小説である閃光のハサウェイの、画角からして自由な画作りを観ていると、『鬼滅の刃』や『チェンソーマン』が原作という枠から出られないことが、大きな足枷となっているという事実に、否が応でも気付かされてしまう。

(オススメ度:60)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次